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Music Story JP Story No.1

山本修 ハモンドオルガン人生

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オルガンの音色に魅せられて人生が変わる

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山本修さん
ハモンドオルガン(ジャズオルガン)を日本に普及した立役者の一人が山本修(ヤマモトオサム)さん。ラジオで耳にしたオルガンの音色に魅せられて以来、50年以上ハモンドオルガン一筋。2021年現在、大阪市の長居商店街の一角でハモンドオルガン屋さんを経営しています。お店はドアを開けるとピカピカのハモンドオルガンがずらりと並ぶショールーム、その奥が山本さんの特等席です。そして2階には防音のレッスン室が3つ。オルガン、ピアノ、ドラムのレッスンが、ワールドクラスの演奏者から受けられます。
山本修さんは、1948年、ウミガメの産卵地として有名な、美しい海岸で知られる四国、徳島県日和佐町(現美波町)で4人兄弟の末っ子として生まれました。建築関係の父の転勤で小学生で大阪市に転居して以来ずっと大阪在住です。幼い頃からやんちゃなスポーツ少年で、水泳と陸上では学校の代表選手。野球少年で、ピッチャーとして活躍していましたが、中学生で後に阪神タイガースのピッチャーとして名を成す江夏選手と同じチームになり、「こりゃあかんわ!」と、限界を感じ、野球少年を卒業しました。音楽では、兄の影響で早くから洋楽に親しみ、ビートルズとエルビス・プレスリーの音楽を聴いて育ちました。
大学では、日本史を専攻。戦国時代に魅力を感じ、武将では織田信長が大好きでした。卒業後は、大手保険会社に就職が決まっていましたが、卒業も近づいたある日、ふとつけたラジオから流れてきたのが、ジミー•スミス(Jimmy Smith 1925-2005)が演奏するハモンドオルガンの音色でした。ハモンドオルガンのジャズレジェンドが奏でる音楽に、その時、山本さんは、打ちのめされるほどの衝撃を受けてしまったのです。運命のいたずらか、その後まもなく新聞にエース電子工業というハモンドオルガン販売代理店の営業職募集の広告が掲載され、絶対に採用されるという意気込みで出かけると当然のように採用。そこから山本さんのハモンドオルガン人生が始まりました。日本の高度経成長期真っ只中、1970年のことでした。
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山本さん、20歳の頃、お父さんと一緒に
入社後は、日本の各地でハモンドオルガンを売り込み、ハモンドオルガンの演奏者を育て、世に送り出して、ブッキングもしてしまうという本物のハモンドマンになっていきます。気がついたら、日本だけでなく、世界的にも珍しいハモンドオルガンの第一人者のひとりになっていました。西日本にハモンドオルガンと優れたハモンドオルガン奏者が多いのは、山本さんの情熱のおかげに寄るところが大きいようです。

ハモンドオルガン 1970年代 ー 広がる人気

ハモンドオルガン(Hammond Organ)は、電気楽器の一種で、1934年にアメリカの発明家、ローレンス・ハモンド(Laurens Hammond , 1895 –1973)によって発明されました。建物に作り付ける高価なパイプオルガンのパイプの代わりにトーンホイールという歯車状の磁性金属製の円盤を回転させて、近接して設置された電磁ピックアップにより磁界変化の波を音源として出力する電子楽器です。(Wikipediaより)

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ハモンドオルガンの奏でる音は独特な合成音で空気感に富んだ深みのある音で、高価なパイプオルガンを設置できないアメリカの教会で広まってゴスペル音楽に採用されました。それから、ジャズやロックなどのジャンルに広がって行ったのです。日本ではメンソレータムを普及した実業家として知られるウィリアム・メレル・ヴォーリズ(William Merrell Vories, 1880-1964)が輸入代理店となって紹介して普及し、後にNHKなどのテレビ番組でも演奏が放映されるようになって広まって行きました。特に高度経済成長期には、人々は西洋の音楽に目覚め、スタイリッシュなハモンドの音色に傾倒する人が増えました。
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ハモンドオルガンB3とレスリースピーカー
山本さんの入社当時、ハモンドオルガンを扱うエース電子工業は、田んぼを埋め立てて開発されたばかりの大阪市住之江区北島地区に事務所があり、山本さんは、雨が降るたびにぬかるむ道を通って仕事に励みました。エース電子工業は後に日本ハモンドと名を変え、また、独自にハモンドに似せたAcetone GT7という楽器も独自に開発して発展していきました。GT7は、日本で初めてドローバーというバーを引いたり押したりして、倍音を合成して音にする装置がついており、当時爆発的に流行したグループサウンズで使用されたこともあって、工場で出来上がるのを待つ人がいるほど人気の楽器となりました。山本さんは、会社がデパートの催事場でオルガンの大売り出しをするたびに応援部隊として駆けつけました。営業担当だった山本さんは、営業する暇もなく、毎日せっせと楽器5−6台を運び、とても忙しかった時代でした。

日本の経済は右肩上がりで、日本の人たちは音楽を聴いて楽しむ人だけでなく、自ら演奏して楽しむ人が増え、楽器を買う人が増えたのです。

広島営業所長に就任

その頃、全国的に嫁入り道具の一つとしてオルガンを持ってお嫁に行く人が多く、地方でも需要が高いと、山本さんは、広島営業所を開設するため広島に転勤になりました。その頃の日本では、人気にあやかって色々な会社がオルガンを製造販売するようになり、ブラザーは、ミシンとセットでオルガンも嫁入り道具に勧めていましたし、東芝は、オーケストロンというオルガンを作成、今はパナソニックになった当時のナショナルはテクニトーンというオルガンを製造販売していた時代でした。

ハモンドの主流楽器であるB3モデルは、独特の深みがある音を奏でる楽器で、ハモンド奏者を連れて行ってデモ演奏をさせると音のわかる人はその音色の素晴らしさにびっくりして購入する人が続出しました。アメリカ製のこの楽器は、スピーカーと本体合わせて300万円くらいで、当時としては高額だった楽器が飛ぶように売れたのです。オルガンの魅力が伝わってピアノを演奏する人もオルガンを買い求め、初めて鍵盤楽器に触れる人もオルガンから始める人が増えました。

競合他社は2年くらいで電子技術の発達とともに機種変更をしていきましたが、ハモンドは老舗でずっと同じですから、ずっと同じ音色です。買い替えずにずっとファンでいてくれた人も多い楽器でした。その頃購入した人たちが、今でも時々山本さんのお店にやってきます。現在は演奏されることのなくなったオルガンの買取もしています。

世界のオルガン奏者との出会い

オルガンの仕事をするようになって、山本さんが一番嬉しかった時は、彼の人生を変えたジミー・スミスやDr.ロニー・スミスに出会えた時です。1973年に大阪のフェスティバルホールでオルガンコンサートがあり、その後大阪にブルーノートでも演奏がありました。山本さんがオルガンを貸し出すことになり、それがきっかけで交流が始まって親しくなりました。人生を変えてくれたジミーの生演奏を初めて聞いた時は、言葉にあらわせないほどの至福の時間だったそうです。

​気さくで楽しい性格の山本さんのオルガンにかける情熱は徐々に広がり、
ブラザー・ジャック・マクダフ(Brother Jack McDuff 1916 - 2001)、ジミー・マクグリフ(Jimmy McGriff 1936 – 2008)、ロニー・スミス(Lonnie Smith 1942 – 2021)、トニー・モナコ(Tony Monaco 1959~)、ジョーイ・デフランチェスコ(Joey Defrancesco 1971~)、という世界のトップオルガン奏者たちとも親交を深めるようになり、日本のハモンドオルガンはYamamotoと、世界のオルガン界でも知られるようになって行きました。
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人生を変えたジミー・スミスと山本さん
心の残るエピソードがあった演奏者は、広島営業所時代、現在も続くフラワーフェスティバルにブラジルのサンバチームと一緒にやってきたブラジル人オルガン奏者のワルター・ワンダレイ(Walter Wanderley、1932 - 1986)です。フラワーフェスティバルの後で、広島のそごうデパートで演奏してもらえることになりました。そごうデパートは、エントランスにハモンドオルガンの最高機種X-66を設置してお客さんにスタイリッシュな音楽を披露していたので繋がりがあり、屋上のビアガーデンで演奏してもらう手筈を整えました。ブラジルのサンバとアメリカのジャズを融合させたボサノバの音楽が世界中で流行しており、そのトップ演奏者の彼の生演奏を聞きたい一心で設定したことでした。憧れの演奏者との出会いにワクワクし、演奏の前に食事に誘って会話を楽しんでいたら、あまりに楽しくて時間を忘れ、気がついたら演奏の時間に1時間も遅れてしまったのです。ドキドキしながら、会場に到着し、大急ぎで演奏を開始しましたが、怒られずにすみホッとしました。演奏は、というと、2回のステージが、大いに盛り上がったことはいうまでもありません。
その後、ワンダーレイの講習会も開催しましたが、参加者皆大喜びの楽しい講習会となりました。

大阪本社帰任、そして独立

飛ぶように売れていたハモンドオルガンですが、歴史が物語るように、物事には終わりというものがやってきます。ハモンドオルガンの人気にも陰りが見え始め、売り上げも落ち始めました。本社がだんだん大変になり、広島営業所で力を発揮していた山本さんは、大阪本社に帰任することになりました。広島では、自分の裁量でコンサートを計画して、音を実際に聞いてもらい、気に入った人に売り込むことができましたが、大阪本社では、楽器を売るだけの方法だったので、難しい状況になっていました。頑張ってはみたものの、時すでに遅しで、結局1986年に日本ハモンドは倒産し、ハモンドオルガンは、現在静岡県浜松市に拠点をおく鈴木楽器という会社に引き継がれました。

それをきっかけに、山本さんは、独立して自分のビジネスを立ち上げることにしました。ハモンドオルガンの売れ筋モデルのB3は75年に製造中止していたので、アメリカから中古品を輸入して売ることを考えたのです。船会社勤務のお兄さんに輸入について教えてもらい、古物商免許を取得してすぐにYSコーポレーションを設立して大阪に店舗を構えました。Yは山本の頭文字、Sは修理などをする技術者の杉沢さんの頭文字をとってつけました。

アメリカで中古のハモンドオルガンを買い付け、コンテナに詰め込んで輸入して販売しました。音楽をやっている人たちで、音のわかる音楽教室経営者の人たちがたくさん買ってくれて、山本さんのビジネスは上々のスタートを切りました。ハモンドオルガンの最高峰のB3モデルは、当時、日本での販売価格は中古でも本体が220万円、レスリーというスピーカーが35万円で合わせて250万円という高価なもので、それがプレミアがついて300万円になった時もありました。それが飛ぶように売ました。

アイディアマンの山本さんは、B3を使った本格的なジャズオルガン教室を開催しました。雑誌に広告を出して説明会を開催し、興味をもった人たちがレッスンを受けに来るようになりました。また、ハモンドオルガンの音色を伝えてくれる演奏者の育成にも尽力してきました。YSコーポレーションでは、オルガンやピアノ、ドラムなどの楽器レッスン場所を提供。大人だけでなく山田ネオ、長尾野々花、安田皓誠と言う将来の大阪のジャズ界を背負うであろう優秀な生徒を子供の時から育てています。そして、生徒さんがオルガンを学ぶだけでなく、オルガンを学んだ人が指導者として活躍する場所も提供してきました。また、オルガン奏者がライブ演奏ができるよう、さまざまなライブハウスのブッキング、そして、フェイスティバルの企画など、次々と豊かなアイディアを実行に移してきたのです。それが功を奏して、関西圏のライブハウスを中心にハモンドオルガンを備えるところが増え、現在でも、当時に設置したオルガンのB3モデルのあるライブハウスではオルガン奏者の生演奏が続けられています。山本さんのオルガンにかける情熱が広がって、日本の関西地区は、世界的にも珍しいジャズオルガンのメッカの一つになっています。
現在日本のジャズオルガン界を支える橋本有津子、小野みどりなどの日本のオルガン演奏者が世界へ羽ばたいて行けるよう山本さんは長い間に渡って、有名オルガン奏者の日本公演で飛び入り演奏を実現させたり、アメリカのオルガン関係者と共同でアメリカのジャズフェスティバル出演やツアーを実現させてきました。また外国からやってくる演奏者の日本公演、オルガンサミットなども企画、実現させています。

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大阪のハービスという大きなショッピングモールに無声映画の時の伴奏をする楽器だったアーレンシアターオルガンという大掛かりなシアターオルガンを導入したり、京都の結婚式場にハモンドオルガンを導入して結婚式を優雅なハモンドオルガンの生演奏で演出したりなど、思いつくことは全部やりました。
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結婚式場に納めた白いハモンドオルガン

やり尽くした人生、そしてこれから

「人生を振り返るとやりたいことをやり尽くした。」
と、話す山本さんの表情は満足げです。
一緒にオルガン人生を歩んできた杉沢さんは数年前に亡くなり、現在は一人で長居商店街の一角のハモンドオルガンショールームの店主としてお店を守っています。一人にはなりましたが、山本さんの情熱が伝わって増えたオルガンを愛する人たちが頻繁に出入りし、後継者になりたいと話す人もでてきて、アンティーク楽器としてのハモンドオルガンと音楽を守っていく暖かい人たちの輪がそこにあります。

ハモンドオルガンは音楽の歴史に初の電子楽器として彗星のように現れ、ヤマハのエレクトーンや、カワイのドリマトーンなど、ハモンドオルガンをまねた楽器もたくさん開発されて次世代へと繋がっています。山本さんは、日本でのジャズオルガン文化に大きく寄与してきました。

時代は変わっていきますが、山本さんのハモンドオルガンにかける情熱は変わったことがありません。その並々ならぬ情熱は音楽の歴史に残り、これからも音楽の灯火として日本で、そして世界で、音楽を奏でる人たちの道を照らし続けることでしょう。
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〒558-0003  大阪市住吉区長居3丁目5-14
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tel:   06-6696-2684  
fax:  06-6606-6656
email:
ysorganb3@gmail.com
website:  http://www.ys-co.org/

取材、執筆: マグワイア由紀子
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